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それでも、ぼくは死ななかった

珍しくアイルランドの本を読みました。またもノンフィクションです。パディ・ドイル著「それでも、ぼくは死ななかった―神に見捨てられた虐待の日々―という本です。この本、表紙の裏(?)と裏表紙の裏(?)を見ただけで泣ける。何気ない子供の写真なんだけど、虐待を受けているわけでもないただの子供の写真なんだけど、そのたたずまいが涙さそう。涙そうそう。
それでも、ぼくは死ななかった―神に見捨てられた虐待の日々 それでも、ぼくは死ななかった―神に見捨てられた虐待の日々
パディ ドイル (2003/08)
アーティストハウスパブリッシャーズ
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この著書はアイルランドとイギリスの両国でベストセラーになったことがあります。内容は非常にかわいそう。性的虐待とか、目を覆いたくなるほどの激しい暴力による虐待ではないんだけど、かなり衝撃的。
なぜか? それは本来虐待があってはならない場所で日常的に虐待が行われたという、いわゆる暴露本だから。その場所とは、両親のいない子らを受け入れる孤児院、しかも修道院。言葉の暴力や、肉体的暴力等、それはあかんでしょ!と誰もが言いたくなるような、誰もが心締め付けられるような内容となってます。著者は母親を乳がんで亡くし、その6週間後に父親が首をつって自殺するという不運な背景を持つ。そのときの著者の齢わずか4歳。
修道院が組織ぐるみで虐待するとはなんたること!ありえないね。生涯残る深い心の傷を背負い、そしてその後は虐待が待っていたんだから。サブタイトルである神に見捨てられた虐待の日々というのはそういうことだったわけだ。彼は車椅子生活を強いられる障害者となってしまうけど、結婚して、子供もいるという現在に至っているのでそれが救い。幼いときに虐待を受けた子供は成長するにしたがって犯罪者への道を辿る傾向があるけど、彼はそうならなかった。身体的にできなかったという見方もあるかもしれないが。ここで一つの疑問。幼いときに虐待を受けた人でも、もちろん誠実な道を歩む人がいる。パディのようにね。じゃ、その分かれ道は一体どこにあるのだろう。同じような環境で育てられ、同じような虐待をされ、立ち直る。これはすごく難しいことだと思うけれども、そう出来た人の人生の分岐点というのはどこなんだろう。有名なのは、ビリー・ミリガンかな。彼は幼いときに受けた虐待が原因で24人という多重人格者になってしまった。他にも、その例はたくさんある。特に性的虐待を受けた子の将来は暗い。
 パディのこの著書で、アイルランドの教会は崩壊したとか。彼はプロローグでこう述べている。

本書は、個人あるいは団体を名指しで非難したり、責任を負わせたり、批判する意図で書かれたものではない。まして、わたしがどういう目にあってきたか、評価をくだするつもりもない。ひとりの子どもに対する社会全体の責任の放棄について書いたものである。わたしがその子どもであったという事実と、本書がわたしの人生について書かれたものであるということは、あまり重要ではない。現実にあり得るのは、“わたし”のような子どもが過去に、そしていまでも数多くいるということである。

この本がアイルランドで初めて出版されたのは1989年だけど、今でも何も変わってないね。日本でも、同じような幼児虐待のニュースが相次いでいる。耳に新しいのは、畠山鈴香容疑者。自分の子どもを殺し、仲良くしていた子どもも殺し、挙句の果てにはテレビに出演するという大ばか者でしたね。どんな神経してんだよ。
新総理の安倍さんは教育にチカラを注ぐということだけど、本当に心からそうすることを願いたい。子どもたちに明るい未来を歩んでもらうために。

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